三 揺れ動く自己意識 －「個性」の幻影－
１ 時代の求める人間像 －「モラトリアム人間」－
先に引用した『幼児期と社会』の翻訳者の仁科弥生氏は、日本社会へのアイデンティティ論の適用について次のように述べている。
「わが国でも、エリクソン理論の枠組みがわが国の青年にも適用できるかどうか考察した実験的研究がある。今後、そのような青年の同一性の危機の解決の様相と、幼児童期という過去の発達段階における危機の解決との関係、また父親や母親の果した役割との関連性などについての実証的研究が望まれる。また、先にあげた『モラトリアム人間の時代』はエリクソン理論を具体的に発展させた日本人論である。明治以来、西洋的なものへの同一化をひたすらつづけてきた日本人が、日本人の同一性を問い直す必要に迫られている今日、エリクソン理論が示唆するものはきわめて大きいと思われるのである。」（注21）
アイデンティティ論が日本において適用できるかどうかについての研究は既に存在する。仁科弥生氏の指摘するように、西洋への同一化をひたすら進めて来た日本人の姿を問い直すためにも、アイデンティティ論は有効である。
いくつかの日本におけるアイデンティティ研究の中から、まず前項でも引用した小此木啓吾氏の著書『モラトリアム人間の時代』に登場する「モラトリアム人間」を紹介する。
現代社会の構造から生まれた「モラトリアム人間」を分析する前に、「モラトリアム」の概念を確認する。
小此木啓吾氏は著書『モラトリアム人間の時代』において次のように説明している。
「「モラトリアム」とは、支払猶予期間、つまり戦争、暴動、天災などの非常事態下で、国家が債務・債権の 決算を一定期間延期、猶予し、これによって、金融恐慌による信用機関の崩壊を防止する措置のことである。 アイデンティティ論で、わが国にも知られている米国の精神分析学者エリク・Ｈ・エリクソンは、この言葉を 転用して、青年期を、「心理社会的モラトリアム」の年代と定義した。青年期は、修業、研修中の身の上であ るから、社会の側が、社会的な責任や義務の決済を猶予する年代である、という意味である。」（注22）
エリクソンが経済学の領域から転用した語である「モラトリアム」は、社会的な責任や義務を猶予されることによって、青年が確固たるアイデンティティ（同一性）を身につける時期を意味する。前項で指摘したように、この時期は、それまでに獲得した価値や他者との関係性を再認識するため、精神的に不安定になりがちである。
また「モラトリアム」（猶予期）は、一般的に「大人に成りきれない青年が逃げ込む」時期と捉えられがちである。無ければ無い方がよい時期だというような認識に基づく教育論も見受けられる。しかし、アイデンティティの獲得という点で「モラトリアム」は、個人の心の発達において欠かすことのできない時期である。
小此木啓吾氏は「モラトリアム」を肯定的に捉えている。
「このような歴史の上に成り立つ近代のオトナ社会は、各青年の「個」＝自我の育成を重視し、モラトリアムを、青年たちが社会的自我＝アイデンティティをつちかい、確立するための猶予期間とみなし、そのためのさまざまな社会的実験や遊び、時には冒険を許容するようになった。青年たちは、さまざまの人間の生き方、思想、価値観に同一化しては、その実験者になる。次々に所属集団を変え、さまざまのかかわりの中でいろいろな役割を試験的に身につける。そしてこの実験や練習を通して、自分に適うもの、適わぬものの吟味、取捨選択を積み重ねてゆくが、この試みは、思想、価値観のみならず、政治、宗教、文化、芸術、職業、異性関係、友人関係、趣味、スポーツ、すべての生活領域にわたって行われる。青年たちは、モラトリアム（猶予状態）を楽しみ、自由の精神を謳歌し、疾風怒濤や青春の彷徨をくり返しながら、実験や冒険をつづけ、やがては、最終的な進路、職業の選択、配偶者の決定をはじめ、そのすべてに自分固有の生き方＝アイデンティティを獲得する準備をととのえるのである。」（注23）
「モラトリアム」は成熟した自我を獲得するために必要な時期である。つまり「モラトリアム」は、青年期のアイデンティティ模索に伴う精神的動揺を、社会システムの側から支える働きをしている。
以上のように、「モラトリアム」は青年の自我の胎動期ともいうべき価値を持つ。
ところで、本来「モラトリアム」は、青年の一時期のことでしか無かった。それが、現代社会においては、急激な社会の変化などに対応するため、以前にもまして長期に渡る「モラトリアム（猶予期）」を必要とするようになった。実質的な青年期の延長である。そこで、青年期の特徴である、「アイデンティティの混乱」に伴う精神病理の危険性が問題になってくる。
小此木啓吾氏は次のように述べている。
「このような青年期＝モラトリアムの延長に伴う、種々の心理学的問題を一九五〇年代にいち早く指摘したのが、かのエリクソンである。ただし、エリクソンは、正常な〃青年〃についてではなく、何らかの精神障害のために、いわば受身的に、青年期後期に訣別することができないまま、ずるずるとモラトリアム状態をつづけてしまう人々に特有な精神病理学的状態としての「アイデンティティ拡散症状群」について記載したのである。
「アイデンティティ拡散症状群」とは、青年期に決着をつけ、オトナ社会に自己を位置づけ、限定することによって確立されるべきアイデンティティ＝自己限定＝社会的自己定義が、何らかの理由でできないために生じる青年期後期に特有な自己拡散状態のことである。
①「自分は……である」という社会的自己（アイデンティティ）の選択を回避し、際限なくその選択を延期する心理状態にとりつかれ、②過剰な自意識にふけり、全能で完全な無限の自分を夢見るので、有限で相対的なすべての〃現実〃が自分にふさわしいものとは思えなくなってしまう。③すべてが一時的・暫定的なものとしてしか体験できない。④時間的な見通しを失い、生活全体の緩慢化や無気力化を来す。⑤人と人の親密なかかわりを避ける。⑥いかなる組織にも帰属することを恐れる。⑦既存社会にのみこまれることへの不安が強い。
この精神病理現象としての「アイデンティティ拡散症状群」は、一定の精神障害が慢性化したために、モラ トリアム状態から脱出して、社会的人間になることに挫折し、いつまでもモラトリアム状態にとどまらざるを得ない青年たちにみられる心的な徴候を意味していた。ひとたびこの拡散状態に陥ると、本来は手段であった準備状態としてのモラトリアムが現実そのものと化し、結果的には、あたかもそれ自体が目的ででもあるかのような、病的な心理状態が成立してしまうのである。」（注24）
現代の青年期の延長に伴い、青年期に特徴的な精神の不安定を示す精神障害「アイデンティティ拡散症状群」が、多くの青年に見受けられるようになった。これは「シラケ」や「四無主義」、「スチューデント・アパシー」等にも繋がっている。
しかし、『モラトリアム人間の時代』の核心部分は、この「アイデンティティ拡散症状群」を肯定的に捉えるところにある。小此木啓吾氏は、かつては病理であった「アイデンティティ拡散症状群」が現代日本において普遍的な社会現象となっていることを指摘している。
「ところが、エリクソンが一つの精神病理現象として描き出した、この「アイデンティティの拡散」は、一九六〇年代以降には、精神病理学者や精神分析学者から〃正常な〃現代青年に特有なモラトリアムの延長心理とみなされるようになった。つまり、それは精神障害による精神病理現象としてでなく、むしろ普遍的な社会心理現象として、観察されるようになったのである。」（注25）
「つまり「アイデンティティ拡散症状群」からはじまり、「スチューデント・アパシー」や青年の「しらけ」「四無主義」などの、精神病理現象の形であらわれるような、いわば受身的につくり出された否定的なモラトリアム心理を、以上述べたような経緯を経て、人々は次第に居心地よいものとして肯定し、積極的に意義づけ、 ひいてはその存在権を公然と主張するようになり、最終的にはどの年齢、性別、職種、階層の人々も、「モラトリアム人間」を、むしろ望ましく好ましい人間のあり方として内在させることになった。つまり、モラトリアム人間は現代人一般の「社会的性格」になったのである。」（注26）
かつては精神病理とされた様々な受身的な否定的モラトリアム心理が、現代社会においてはその質を積極的な性格へと変化させた。そして青年期にとどまることなく、生涯に渡るものとして現代人一般の「社会的性格」ともなった。（「社会的性格」は本論文でも後に紹介する社会心理学者エーリッヒ・フロムの用語である。）小此木啓吾氏は積極的に「モラトリアム」を行使する現代人の有様を「モラトリアム人間」と命名し、肯定的に捉えようとしている。
受動的態度から積極的態度へと変化したとはいえ、そもそも病理であったものを肯定的に捉える小此木啓吾氏の考え方は容易に理解しがたいことでもあろう。しかし、このことは本節第一項の国語教育実践者の児玉忠氏の言説にも繋がる。児玉忠氏は、自身の経験を軸に、学生の「シラケ」の内部には、自分とは何かという問に関する「知的胎動」があることを指摘していた。従って児玉忠氏は「シラケ」を肯定的に捉えようとしていた。また「生涯教育」の概念にも、自己を一定のイメージに限定することなく不断に努力し続ける「モラトリアム人間」の姿を垣間見ることができる。
さらに、小此木啓吾氏はモラトリアム人間のサブタイプとして、１「受身的なモラトリアム人間」、２「モラトリアムを能動化するモラトリアム人間」、３「脱モラトリアム人間」の三タイプを挙げている。「受身的なモラトリアム人間」は、「スチューデント・アパシー」や「アイデンティティ拡散症状群」そのものであり、精神病理から抜け出せない否定的モラトリアムを持つ人々である。「モラトリアムを能動化するモラトリアム人間」はモラトリアム人間であることを能動化し、積極的に肯定する人々である。「脱モラトリアム人間」は「モラトリアム」を否定し、従来の価値に固執する人々である。
小此木啓吾氏は自己実現型の「モラトリアムを能動化するモラトリアム人間」を肯定的に捉え、特に「プロテウス的人間」の存在を中心的に取り上げ、現代社会に適応する可能性を説いている。
「「モラトリアム人間」であることを自己のアイデンティティとし、次から次へと自分をいろいろな生き方、考え方に同一化させて変身を遂げ、その過程で自己を自己実現していく自己実現型人間。別名「プロテウス的人間」ともよばれる。」（注27）
「旧来であれば、このタイプの人間はこう非難されたであろう。これでは永遠の青年であって、いつになっても社会的にオトナにならない。まことに観念的で、無責任な人間である。遊びか冒険としてのディレッタント的人生しかもてはしない、と。
たしかにかつてこのタイプの人間は、むしろ意志薄弱型青年に多くみられ、とてもものにならないと考えられていたのであるが、今やこのプロテウス的人間が現代の適者になろうとしているのである。いやむしろ、プロテウス的人間としての資質がなければ、とてもこの変動社会を生き抜いてゆくことはできない。一人の人間 の人生周期一つをとりあげても、高年齢社会に生きる人々は、同一人物がいくつかの時代を人生の各年代で次々に経験し、そのたびに古い自分を棄て、新しい自分の生き方、価値観、社会的役割を身につけ、自己を変身させねばならない。
たとえば、マスコミで活躍する多くのヒーローたちは、作家であれ、芸術家であれ、俳優であれ、テレビタレントであれ、いずれも、いくつかの役割をこなすことができねばならないし、それができる才能を期待されている。これは、現代社会に対する人間の潜在的な適応の仕方を顕在的な形であらわしているといえるであろう。」（注28）
かつては、自己を一定の社会的役割の中に限定することのできない青年は非難の対象であった。しかし、現代においては、自己を限定せず不断に変化し続ける「プロテウス的人間」がむしろ変動社会を生き抜くための一つの理想像とも言える。一定の価値に縛り付けられ、狭い範囲でしか思考できない者は必然的に時代から取り残される。かつては病理とされた「アイデンティティ拡散症状群」が、受身的性格から積極的性格へと変質し、現代においては、「生涯教育」が象徴するように、生きていくために不可欠な要素となったのである。
しかし、この逆説的状況のもとをたどる時、「アイデンティティ拡散」が本来病理であることを無視できない。
「しかし、プロテウス的人間たろうとすることは、時には危険も伴う。新しい変身に失敗したら、元に戻っても古い自分はもはやダメということもおこる。表面的には多様な自分を使いこなしているようにみえても、結局は自我＝役割の拡散状態に陥るおそれがある。プロテウスたるためには、いくつかの局面で十分にこの自己を実現することのできる並外れた能力が必要である。」（注29）
「プロテウス的人間」は自己実現に失敗した時、結局「アイデンティティの拡散」 自分が何者かについての混乱状態 による精神の不安定を引き起こす恐れがある。また「プロテウス的人間」であるためには、様々な状況に適応するための「並外れた能力」が必要である。
つまり、現代社会の状況が我々に「プロテウス」たることを求めているにせよ、「プロテウス的」生き方をするには、自分の心を支えるための何らかの方策が必要になるということである。全ての人々に「並外れた能力」を期待することはできない。現代の教育を考える時、生涯に渡る心のエネルギーの獲得手段を、学習目的の一つとして追究する必要がある。
ここでは、小此木啓吾氏の『モラトリアム人間の時代』を対象にして、激しい変化と複雑な価値を背景とする現代社会において、かつては青年期の病理とされた自己を限定しようとしない受身的「モラトリアム心理」が、積極的な性格を手に入れることによって、半ば社会的に肯定されようとしている様を明らかにした。そして、この時代を生きるために、心を支えるための何らかの方策が必要なこともわかった。
次に、日本における他の「アイデンティティ」研究を対象として、さらに日本人の心理の奥深くに入り込み、現代文化が日本人に及ぼす影響、その危険性と可能性について論を進める。
２ 「予定」の時代から「選択」の時代へ
ここでは、アイデンティティ研究者の鑪幹八郎氏の言説を対象として、現代において日本人の意識が過去からどの様に変化したかを捉え、「アイデンティティ」を考察することの意味を追究していく。
鑪幹八郎氏は著書『アイデンティティの心理学』において、日本人を対象としたアイデンティティに関する調査を分析する観点から、次のように述べている。
「日本の場合、伝統社会的な生き方に従って、親の意向や価値を踏襲する青年が多いのではないか、つまり、「予定アイデンティティ」のタイプが多いのではないか、ということが予想されていた。だから、実感としては、日本の青年とアメリカの青年との間に違いがあるように思われるのだが、結果からすると、アメリカの資料とあまり違わなかった。
この違いについての実感をどう考えたらいいのだろうか。
日本の場合、アメリカの青年のように自己の責任において判断し、決断するというように、責任の所在が自分の中心にあるのと違うようである。では、日本ではどうなっているのだろうか。
日本ではいくつかの将来の選択はあるものの、やはり与えられたものを受けとるというかたちのものが多い。表面から見ると、アメリカの資料に近くなるように見えるのは、日本社会の急激な変化を反映して、親の職業や価値と違ったものを「選択させられている」からではないだろうか。親と違った価値観や職業観をもっていることは、必ずしも自己の確立やアイデンティティが形成されているということにはならない。
アメリカの青年と日本の青年のアイデンティティの様態を直接比較した研究もある。これは森裕子氏（一九八九）の行なったものである。
森はアメリカと日本の青年ではアイデンティティの様態に関して、似ている面もあるが、違っているところのあることを見いだしている。違いとしては、日本では個人のアイデンティティというより、集団への同調性が重んじられることをあげている。この結果も興味探い。というのは、日本の場合、個人主義的とか自立的などといっても、比較してみると集団に同調しようとする傾向がたいへん強いということがはっきりと示されてしまうからである。
国際的なレベルでアイデンティティの問題を考える際に、このような点はきわめて重要なことだろう。」（注30）
鑪幹八郎氏は、日本人のアイデンティティについての調査に関して、日本人が想像以上に西洋人に共通した面を持っているが、表面に出にくいところで「集団に同調」する傾向が強いことを指摘している。
さらに、日本人の自我について鑪幹八郎氏は次のように分析する。
「西洋の近代化ということが、自我の側面からすると、「私」という形で自覚される独立の責任主体として、また独立した人格として発現されるべきものだとすれば、「日本人においては人間の一人一人が、つまり、他人と区別された自分として、十分に独立した主体としては自覚されない」ということになるのである。」（注31）
「このようであるから、個人はあくまでも、「自分」を隠し、自己の能力を隠し、個性を隠して生きなければならないことになる。これらは、すでに見たように、森氏に代表されるアイデンティティの形成や個性の尊重、自分の根本的な経験の重視ということと、ちょうど正反対のあり方であることがわかるであろう。
では、「座」を中心とするところから生まれるアイデンティティのテーマは、どういうものになるだろうか。
当然のことながら、定まったコースを歩む「予定アイデンティティ」ということになるであろう。決められた道、決められた役割を、選択の余地のないままに受け容れていくのである。これは最も葛藤の少ない、生きやすいものではないだろうか。
今日まで、こころの面から見て、日本の自我は、この点でほとんど変わっていないと思われる。ここでの問題は、そのような決められた道や役割を拒否しようとする創造的な人たちである。アイデンティティの混乱や形成のための苦しみは、このような人たちにみられたのである。この人たちは家族からの「勘当」や無援助を覚悟しなければならなかった。多くの芸術家や創造的な人の苦しみは、このような日本の「場」や「座」の社会構造の中でのアイデンティティ形成の苦しみであったといってよい。」（注32）
日本人は本質的に西洋型の「独立した主体」を持っていない。「座」（注33）の概念が暗示するように、これまでの日本人は、集団に同調し、自分の個性を隠すことが美徳とされてきた。しかし、これは個人が文化・社会から強いられているのではなく、葛藤が少なく、生きやすいがために、自らそのような生き方を受け入れているとも言える。鑪幹八郎氏は、日本人の自我が今日に至るまでほとんど変化していないことを述べている。
集団に同調し、決められた役割を受け入れる生き方は、一面に日本人の長所と捉えることもできる。すなわち、「謙虚さ」等の言葉が暗示するように、お互いがお互いを尊重しあい、傷つくことなく生きていける。「集団に同調」する生き方は、社会の持つ機能を円滑にする働きを持つ。これまで学校や会社などにおいては特にそのような傾向が顕著であった。
しかし、現代の時代状況は日本人に対してそのような「予定」された生き方を許さない。多様な価値、変化する状況、複雑な人間関係等、現代文化の様々な要素が、日本人に真の「個人」であることを強制しようとしている。
右のような点について、鑪幹八郎氏は次のように述べている。
「わずか四十数年の戦後の日本での社会の変化の著しいことは、多くの人によって指摘されている。社会的には「もの供給」中心から、「ものの質」中心への移行といわれている。
このことは心理的にみると、どのような変化となっているのだろうか。
心理的な面からみると、あるものを受けとめ、与えられるものを受け容れる受身的な他者依存の姿勢から、ものを自分の好みに合わせて選び、積極的に探すと同時に、欲しくないものを拒否する「選択の姿勢」への移行だということができよう。
この「選択する」ということこそ、西欧近代の個性の基盤となるものであった。日本にも、ようやくその「選択」の状況が到来したといってよい。アイデンティティの面からみると、これまで「予定アイデンティティ」として定められていた役割や道を否定することを意味する。自分の役割や道は自分で努力して発見しなければならず、発見したものを自分で選択し、努力して獲得しなければならないのである。」（注34）
鑪幹八郎氏は、日本人がこれまでの受け身的な他者依存的な姿勢から、自分の好みや役割を積極的に探す「選択の姿勢」に変化しつつあることを記している。「選択の姿勢」への変化は、表面的には「真の自己」に近づくといった肯定的イメージが強い。しかし、これまで受動的姿勢の中で安定した暮らしをしてきた日本人にとって、生き方を「選択」することは容易ではない。
右のような点について、鑪幹八郎氏は次のように述べている。
「「選択」は、「予定アイデンティティ」と正反対のものである。これまでの与えられるアイデンティティにたいして、探し、発見し、獲得していくアイデンティティに変化していっているのである。
日本のすべての人が、この選択の方向で努力を強いられるようになってきたということは、たいへんなことである。定められたことをやっていればよかったのに、これからは努力をして探さねばならないのである。ガムシャラにものを生産するというかたちでエネルギーが使われていたのに対して、これからは「何をつくるか」「何を求められているか」「自分は何をしたいのか」といったことを、常に自分の内側に問いかけながら生活をしていかねばならない。これにはこれまでと違った新しいエネルギーが必要となる。このような中での選択の「迷い」は深刻なものになっていくだろう。
この「予定アイデンティティ」から新しい「選択するアイデンティティ」への質的な変化の中で、アイデンティティ形成の混乱が起こるのである。」（注35）
「予定」から「選択」へと態度を変化させるには、「たいへんな」エネルギーがいる。そして、「選択」の迷いの中で、深刻な「アイデンティティの混乱」が起きる。これまで予定調和的な文化社会状況にあっただけに、予測不可能な「選択」の生き方は、個人を不安に陥れる。このことは発達段階としての青年期の特徴によく似ている。
「選択」に伴う精神の不安定は学校教育においても顕著である。この点について鑪幹八郎氏は次のように述べている。
「これらを示唆する大学の中の問題としては、すでにみた「スチューデント・アパシー」であり、卒業延期、著しい勢いで増大している高校生の中途退学などではなかろうか。いずれも、これらの問題を解くキーワードは「選択」ということにあるようである。
スチューデント・アパシーの学生は、大学に入学してから、自分のやるべきものが大学にはないのではないかと、模索しているように思われるし、それではその望むものは何かとなるとわからない、というところで迷っているように見える。また、高校生の中途退学はスチューデント・アパシーのように迷わずに、さっさと高校をやめていく。しかし、やめたからといって、目的に向かって進むわけではない。まだ、何をしたらいいのか、何をしたいのかは決まっていないのである。だから、未決定のまま、ぶらぶらしているのである。それは、「選択」の迷いである。」（注36）
鑪幹八郎氏は現代の教育の中心的課題ともいうべき「スチューデント・アパシー」等が、自分の役割を「選択」する不安から生まれていることを指摘している。このことは青年期の教育の在り方を暗示するものとしても興味深い。「選択」の不安に陥った者に対して、さらなる選択の機会を押しつけることは、精神的不安定を増大させる。（たとえばカウンセリングなどにおいても、「スチューデント・アパシー」に対して、進路の話等をする事を、症状を悪化させる指導として禁じている。）
また、鑪幹八郎氏の指摘する「選択の迷い」は、小此木啓吾氏のいう「アイデンティティの拡散」を自分のライフスタイルとする「モラトリアム人間」のマイナス面といえる。積極的「モラトリアム人間」は、不断に自己を変革させるが故に、激しく変化する現代社会に適応する能力を持つ。しかし、それには「並外れた能力」を必要とするため、結局は積極的「選択」に疲れ、「アイデンティティの拡散」による精神的不安定に陥ってしまう。
鑪幹八郎氏は、「モラトリアム人間」を支えるために、現代の日本においては「アイデンティティの確立」こそ中心的な課題にすべきと説いている。
「現在、日本はようやく職業もまた選択の時代を迎えたといってよいのではなかろうか。そうだとすると、「選択」する主体としての自己のアイデンティティの確立が、もっとも重要なテーマとして出てこざるを得ないのである。このようなことから、日本もようやくアイデンティティの時代を迎えたのだということもできるのである。」（注37）
「だから、もしアイデンティティの混乱や拡散に陥っているような場合、次から次へと流行に追われ、流行に呑まれてしまうような、心のあわただしい生活となるだろう。そしてひどい状態になると、自分は一体何を求めているのか、何をしているのかわからなくなり、動けなくなってしまう。
このようにみると、しっかりしたアイデンティティが自分のものになっていないと、次次に変化していくライフスタイルは選択できないのである。つまり、「アイデンティティ人間からモラトリアム人間へ」というのではなく、アイデンティティとモラトリアムはともに存在しなければならないのであり、ライフスタイルはアイデンティティによって支えられて、はじめて意味のあるもの、力のあるものとなるのである。「選択」を可 能にする自我の前向きの力こそアイデンティティなのである。
このようにみると、私たちはアイデンティティのある程度の確立なしには、健康に生きてゆけないといっても過言ではないだろう。」（注38）
鑪幹八郎氏は、「モラトリアム」と「アイデンティティ」とは不可分であることを説き、「選択を可能にする自我の前向きの力」こそ「アイデンティティ」であると述べている。
本論文においては、日本人の生き方が文化状況の変化に伴い、かつて獲得していた集団同調的な「予定アイデンティティ」から、個人としての積極性を重んじる「選択するアイデンティティ」の獲得が要求されるようになってきたことを見てきた。そして、「選択」の迷いが引き起こす不安に対処する上で「アイデンティティ」が重要な観点と成りつつあることを確認した。
しかし「選択の自由（まよい）」が引き起こす精神的不安については、一見矛盾したイメージがある。我々の常識は、「自由」で「個性的」であることは、人をそれぞれの本来の姿に戻し、生きる力を与えるはずだと教えている。そのような観点に立つとき、この節で論じてきたことは、論者の杞憂のように感じられるかもしれない。また、ここまで論じてきたことから逆に、「アイデンティティの混乱」が「アイデンティティの獲得」に繋がり、自己イメージに確信を持って生きていけるのであれば、現代の混乱状況も肯定的に見てよいのではないかという考えも成り立つ。
右のような指摘には、確かに根拠がある。現代社会は個人が「真の自己」に到達する可能性を内包している。しかし、その過程が混乱の危険と背中合わせであることは無視できない。
本節では、「選択」の迷いが引き起こす危険性と可能性について、さらに詳細な分析を試みる。
３ 「個性」の幻影 －『自由からの逃走』－
現代社会を生きる者の特徴である「選択の迷い」について、鑪幹八郎氏とほぼ同じ観点から、社会学者の山崎正和氏が著書『柔らかい個人主義の誕生』において次のように述べている。（以下の引用は高等学校の教科書などにも教材として記載されている。）
「いつか遠い未来の眼が振返ったとき、二十世紀の最後の二十年は、ひょっとすると、人類の精神史のなかでも特筆すべき時代として見えるかもしれない。それは、日本を含むいくつかの脱産業化社会において、無数の大衆が、ひとりひとり自分が自分自身を十分には知ってゐない、といふ事実に気づく可能性を持ち始めた時代 だからである。
少なくとも今日の日本の社会ほど、ひとびとが、多様な商品をまへにして何を買ふかに思ひ悩み、どこへ遊びに出かけるかに心をくだき、自由な時間をいかに使ふかを決めかねてゐる社会は少ないだらう。町を歩いてきまって耳にするのは、「何か面白いことはないか」といふ青年の会話であり、書店や新聞売り場で目にするのは、服飾、旅行、趣味、テレビ番組など、あらゆる楽しみにかかはるおびただしい案内書の山である。大型の工業製品だけについて考へても、現在、某企業が一社で生産するモーター・サイクルの種類は、デザインや色彩の違ひを勘定に入れれば、つねに数百に達してゐるといはれる。まして、食品や衣料の品種と商標は数へきれず、行楽地や文化施設の種類も限りなくあるから、何を着て、何を持って、どこへ行くかといふ選択肢の組合せは、ほとんど天文学的な数字にのぼるであらう。しかも、現代社会でほ、さうした選択を助けるはずの情報そのものの数が多く、消費者は案内書やカタログの山に埋もれて、まづその情報の選択に苦しまねばならない。
一方で、選択すべき対象の数が増えるとともに、他方では、選択しながら生きるべき自由な時間が伸びて、現代人の人生はまさに迷ひの機会の連続になったといへる。青春の猶予期と老後の余生がともに長くなって、労働による拘束時間が減ったばかりでなく、労働の時間そのもののなかにすら、自由な選択の余地がしのびこみ始めてゐる。商品の企画開発や、デザイン、宣伝、セールスといった非工場的な労働の場合、真に大きな成果をめざさうとすれば、決められた手続きをただ反復することは有効ではない。さういふ職場に生きるひとりの勤労者にとって、ある一日の午後、つぎの数時間をいかに過すかについて規則による拘束がなく、完全に彼の創意にゆだねられる機会は確実に増えつつある、といへよう。けだし当然のことだが、消費者が何を買ふかについて迷ひの機会を増やせば、その分だけ生産者もまた、何を、どのやうに作るかについて真剣に迷はねばならないのである。
興味深いことに、現代の日本人は早くもこの急増する選択の機会に疲れを覚え、一面においては、無意識のうちに一種の「自由からの逃走」を試みてゐる、とさへ見ることもできる。」（注39）
右の引用には、現代社会の持つ可能性と、その裏腹の危険性が明確に提示されている。
山崎正和氏によれば、現代社会の大衆は「自分が自分自身を十分に知っていない」ということに気づき始めている。これは真の「自己」を追求する姿勢に繋がるものであり、肯定的な捉え方といえる。このような点について、山崎正和氏は次のように解説している。
「いふまでもなく、近代の歴史を振返れば、人間は一貫して、行動の多くの分野にわたって自由意志の支配を強め、あらゆる問題について意識的な選択の機会を増やしてきた。職業や配偶者の決定はもちろん、家族の構成や子供の出産にいたるまで、かつては伝統的な習俗に支配されてゐたことが、近代では、すべて個人の自由な選択にゆだねられることになった。しかし、その場合、前提とされてゐたのほ、個人の欲望が明快に存在するといふ事実であって、自由な選択とは、その欲望が意志となって働くのに何の妨げもない、といふことを意味してゐた。いひかへれば、近代の自由の前提は、人間が自分自身を十分に知ってゐるといふことであり、より具体的にいへば、自分が何を欲してゐるかを完全に知ってゐる、といふことであった。
これにたいして、現代の消費者は、おびただしい商品の山をまへにして、たえず自分の欲望そのものの内容を問ひただされ、しばしば、じつは自分がその答へを十分には知らない、といふ事実を自覚させられてゐる。 「何か面白いことはないか」と自問する人間は、すでに半ばは、自分がその「何か」を知らないことを告白してゐるのであり、自分が自分にとって不可解な存在であることに気づき始めてゐる、と見ることができるだらう。」（注40）
近代まで、人は自分のことを十分に知っていると考えていた。それは選択の機会がそもそも少ないため、選択の迷いを感じることがなく、自分の欲望の内容に疑問を持つことがなかったからである。しかし、現代において人は、選択の機会の急激な増加に伴って、「自分自身とは何か」という問題に直面させられている。これは、エリクソンのいう、「モラトリアム」の時期の特徴に他ならない。つまり、現代人はアイデンティティを獲得する機会を歴史上初めて得ていることになる。
問題は「選択の迷い」がもたらす危険性である。先の引用（注39）後半において、山崎正和氏は現代の日本人が選択の機会の急増に疲れ、「自由からの逃走」を試みている点を指摘している。「自由からの逃走」は逆説的な表現である。近代まで人は個人の自由を追い求め続けていたはずである。その成果が「民主主義」だという点は多くの人が同意するところだろう。我々がそういった常識に立つとき、次のような疑問が生まれる。「自由からの逃走」とは具体的にどのような行動を意味するのか。そして、何故現代の日本人は「自由からの逃走」を試みなければならないのか。
「自由からの逃走」は、社会心理学者エーリッヒ・フロム（以降フロムと表記）の代表的著書の題名である。『自由からの逃走』においてフロムは、ナチズムを支持したドイツの大衆の心理を分析し、簡単に権威に自分の意志をゆだねてしまう人の心の弱さを糾弾している。ここでは現代文化の持つ危険性を浮き彫りにするため、人が何故「自由」から逃げようとするのか、現代の学校教育の抱える問題と関連させながら論じていく。
まず、『自由からの逃走』の序文を参考に、フロムの主張の概要を捉える。
「現代の状態にたいして心理学的考察がどれほど重要であるかを指摘することは、心理学を過大に評価することにはならないと思う。社会過程の基礎的な実体は個人であり、またかれの欲望と恐怖、かれの激情と理性、かれの善への傾向と悪への傾向である。社会過程の力学を理解するためには、個人のうちに働いている心理的過程の力学を理解しなければならない。ちょうど個人を理解するためには、個人を形成する文化の文脈のなかで個人をみなければならないように。本書の主題は、次の点にある。すなわち近代人は、個人に安定をあたえると同時にかれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この狐独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。」（注41）
フロムの主張は大きく次の二点に集約される。
①かつて個人の自由を縛っていた社会的拘束は同時に精神的な安定も与えており、民主主義の獲得によってそれを失った近代人は不安な無力なものになった。これは個人が積極的な意味での自由をまだ獲得していないことによる。
②近代人が孤独や不安感から逃れるためには、新しい依存と従属を求めるか、自身の独自性と個性にもとづく積極的な自由の獲得かの二者択一を迫られる。
①のような考え方は、常識的な観点からは矛盾しているようにもとれる。我々は、自由による精神的安定を求めて、前個人的な社会システムと戦ってきたはずである。（例えば絶対君主制などである。）しかし、フロムは前個人的な社会システムは、個人に精神的な安定を与えており、民主主義などの近代社会が、一方で個人に独立と合理性を与えながらも、一方で彼を孤独と不安に陥れているというのである。このような一見矛盾する主張に関してフロムは次のように述べている。
「すなわち近代的産業組織は個人を発展させたがーかれをいっそう無力なものにした。それは自由を増大させたが、ーしかし新しい依存を生みだした。われわれは人間の性格構造全体におよぼした、資本主義の影響をのべようとは思わない。というのは、われわれはただ一般的問題の一面だけに集中したいからである。すなわち自由の発達過程の弁証法的性格である。われわれの目標は、近代社会の機構が同時に二つの仕方で人間に影響をあたえていることを示すことである。その二つの仕方というのは、人間はよりいっそう独立的、自律的、批判的になったことと、よりいっそう孤立した、孤独な、恐怖にみちたものになったことである。自由の問題全体を理解することができるかどうかは、この過程の両面をみて、一方を追求しているとき他方の痕跡を見失わないかどうかの、まさにその能力にかかっている。
これはなかなか困難なことである。なぜならば、われわれは非弁証法的な思考になれていて、二つの矛盾する傾向が、同時に一つの原因から生まれてくることに疑いをもちたがるからである。さらに自由の否定的な側面、すなわち自由が人間にもたらす重荷については、とくに自由の主張で心がいっぱいになっているひとにとっては、理解しがたいからである。」（注42）
人を批判することで「心がいっぱいになっている」人が自分自身の欠点に気づきにくいように、我々は自由が矛盾する二つの傾向、「自律」というプラス面と「孤独」というマイナス面を持っていることを認めにくい。しかし、本論文においてここまで明らかになった青年期の特徴である「自立」するが故の「精神の不安定」を想起すれば、「自由」が矛盾した二つの性格を持つことは十分理解できる。
序文の内容からもわかるように、フロムは近代人の精神を分析する際の基準として「孤独感」を重要な要素と見ている。その根拠についてフロムは次のように述べている。
孤独の恐怖がなぜ人間のなかでそんなに力強く働いているかを説明しようとすると、われわれはここで辿っている主要な道筋から遠く離れることになろう。しかし他者と一つに結ばれたいという要求が、なにか神様的な性質のものではないかという印象をあたえないために、その答えを私がどのような方向に考えているかということだけは、ここで示しておきたい。
一つの重要な要素は、人間は他人となんらかの協同なしには生きることができないということである。どのような文化のもとでも、人間は生きようとするかぎり、敵や自然の脅威から自分を守るためにも、あるいは働いたり生産したりすることができるためにも、他人と協同することが必要である。ロビンソン・クルーソーでさえフライデーをつれていた。かれがいなければ、おそらく気狂いになったばかりか、実際に死んでしまったであろう。人間はだれでも子どものときに、他人の助けの必要であることを痛切に経験する。もっとも重要な機能についても自分自身で処理することができないために、他人との接触は子どもにとっては生死の問題である。ひとりぼっちに放っておかれる可能性があるということは、子どもの全存在にとってもっとも重大な脅威とならざるをえない。
しかし「帰属」を求める要求を、そんなにもはげしいものとするもう一つの要素がある。すなわち主観的な自己意識の事実、あるいは自己を自然や他人とはちがった個体として意識する思考能力である。もちろんつぎの章で明らかにするように、自覚の程度はいろいろと変化するが、この自覚のあることが、人間を本質的に人間的な問題に直面させるのである。すなわち自己を自然や他人とはちがったものとして意識することによって、またたとえぼんやりとはしていても、死や病気や老衰を意識することによって、人間は宇宙や「自分」以外のすべてのものと比較して、自分がどんなに無意味で卑小であるかを感じないわけにいかなくなる。どこかに帰属しないかぎり、また生活になんらかの意味と方向とがないかぎり、人間はみずからを一片の塵のように感じ、かれの個人的な無意味さにおしつぶされてしまうであろう。かれは自分の生活に、意味と方向とをあたえてくれるどのような組織にも、自分を結びつけることができず、疑いでいっぱいになる。そしてけっきょくはこの疑いのために、かれの行動する力、すなわち生きる力を失うのである。」（注43）
フロムは人が孤独を感じることについて、二つの原因を挙げている。
一つは人が他人との共同なしでは生きられない社会的動物であること。
もう一つは、人は知性を持ち、自分自身について考えることができる存在であるため、必然的に自分が他人や自然から本質的に切り離された存在であることを意識せざるを得なくなることである。
以上のように、人は人である限り常に「孤独」と戦い続けなければならない。そして、必然的に「孤独」の回避が、個人の行動原理において重要な位置を占めることになる。
次に、本論文の目的である、現代人の青年期以降の心理を追究するため、「孤独」が発達過程で個人に対してどのような影響を与えるかを見ていく。
フロムは幼児期の母と子の絆（第一次的な絆）が役目を終えた後、個人が選択するべき道が二つあることを指摘している。（序文のポイント②に相当する。）
「個人に安定感をあたえていた第一次的な絆がひとたび断ちきられるやいなや、そして個人がかれのそとに完全に分離した全体としての世界と直面するやいなや、無力感と孤独感とのたえがたい状態にうちかつために、二つの道がひらかれる。一つの道によって、かれは「積極的自由」へと進むことができる。かれは愛情と仕事 において、かれの感情的感覚的および知的な能力の純粋な表現において、自発的にかれ自身を世界と結びつけることができる。こうしてかれは、独立と個人的自我の統一とをすてることなしに、再び人間と自然とかれ自 身と、一つになることができる。かれのためにひらかれているもう一つの道は、かれを後退させ、自由をすてさせる。そして個人的自我と世界とのあいだに生じた分裂を消滅させることによって、かれの孤独感にうちかとうと努力する。」この第二の道は、かれを世界と再び結びつけるとしても、個人として解放されるまえに、かれが世界と関係していたようなぐあいにはけっしていかない。なぜなら分離しているという事実を動かすことはできないからである。この道はもしそれがながびけば、生きていくこともできないような、たえがたい状態からの逃避にすぎない。それゆえ、この逃避の方法は、おそろしい恐怖から逃れるばあいのように、強制的な性格をおびている。またそれは多かれ少かれ、個性と自己の統一性との完全な屈服という特徴をもっている。 したがってその解決は幸福と積極的な自由へ導くものではない。原則として、それはすべての神経症的現象にみられるような解決である。それはたえがたい不安をやわらげ、恐怖をさけることによって、生活を可能にするかもわからない。しかしそれは底にひそむ問題を解決したのではなく、ただ自動的な、また、強制的な行動だけで成立しているような生活によって、その代償をはらっているのである。」（注44）
幼児期に人は母と子の絆に守られて、自分自身の存在に対して揺るぎない自信を持つ。前項で述べた基本的信頼に相当する。しかし、人は成長に伴って、様々な人間関係や様々な価値と出会い、自分自身に対する認識を再確認・再構成する必要に迫られる。この時人は真の「孤独」を味わうことになる。
個人が「孤独」を解消するために二つの道のどちらかを選択しなければならない。
一つは、愛情や仕事によって自発的に社会に関わっていく「積極的自由」の獲得。もう一つは、「自由を捨てること」である。前者は人の生き方として一つの理想像を提示しているが、後者については常識的見解からは理解しがたいことであろう。なぜ「自由を捨てること」が、たとえそれがかりそめの心の安定に過ぎないにせよ、個人を「孤独」から回避させることができるのか。
本論文ではまず、「自由から逃避」することが孤独を回避することに繋がる点を分析する。
フロムは「自由から逃避」する方法として「権威主義」と「機械的画一性」の二つを上げている。
まずフロムは「権威主義」について次のように述べている。
「ここでとりあつかおうとしている自由からの逃避の最初のメカニズムは、人間が個人的自我の独立をすてて、その個人にはかけているような力を穫得するために、かれの外がわのなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合させようとする傾向がある。いいかえれば、失われた第一次的絆のかわりに、新しい「第二次的」な絆を求めることである。
このメカニズムは、服従と支配への努力という形で、はっきりとあらわれる。あるいはむしろ、正常な人間やとくに神経症的な人間のうちにいろいろな程度でみられる処の、マゾヒズム的およびサディズム的とでもいいうるような努力のうちに、あらわれる。まずこれらの傾向についてのべ、つぎにこれらのいずれもが、たえがたい狐独感からの逃避であることを示そう。」（注45）
フロムは「権威主義」的性格として、「マゾヒズム的」及び「サディズム的」性格を挙げ、どちらも孤独からの逃避であることを指摘している。
特に、以下のサディズム的傾向に関する記述は「いじめ」理解にも繋がる。
「サディズム的傾向は、あきらかな理由から、社会的にはずっと害のないマゾヒズム的傾向よりも、いっそう無意識的であり、いっそう合理化されることが多い。しばしばそれは、他人にたいする過度の善意、過度の配慮の結果であるとして、おおいかくされる。もっとも多くみられる合理化はつぎの通りである。「私がお前を支配するのは、お前にとってなにが最善であるか、私が知っているからだ。お前の利益のために、お前は私にしたがうべきだ」。あるいは「私はこのようなすばらしい独自の人間であるから、私は他人が私に依存することを期待するだけの権利をもっているはずだ」。搾取的な傾向をかくすためには、もう一つの合理化の仕方がある。「私はお前にたくさんのことをしてやった。今度は私はお前からほしいものをとってもよいはずだ」。サディズム的衝動のもっと攻撃的な形は次のような二つの形で合理化される。「私はひとからきずつけられた。ひとをきずつけようとする私の願いは復讐にほかならぬ」。あるいは「最初になぐりつけたのは、私や私の友人がきずつけられる危険をふせぐためだったのだ」。」（注46）
「いじめ」に荷担する生徒の多くは、「いじめられる」側の責任を訴えるという。そして、「いじめる」側の多くが自分では被害者意識をもっているという。「いじめられた」から「いじめ」返すのである。フロムは以上のような心理が、孤独からの他者依存的な逃避によって生まれることを説いている。
「しかし心理学的には、この二つの傾向は一つの根本的な要求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと、自己自身の弱点とから逃れでることである。私はサディズムとマゾヒズムのどちらの根底にもみられるこの目的を、共棲と呼ぶことにしたい。心理学的意味における共棲とは、自己を他人と（あるいはかれの外側のどのような力とでも）、おたがいに自己自身の統一性を失い、おたがいに完全に依存しあうように、一体化することを意味する。サディズム的人間は、マゾヒズム的人間が対象を必要とするのと同じように、対象を必要とする。ただかれは、抹殺されることによって安全を求めるのではなく、他人を抹殺して安全を獲得する。どちらのばあいも個人の統一は失われる。一方では私は自己の外側の力のなかに解消する。私は私を失う。他方では私は自己を拡大し、他人を自己の一部にするが、そのさい私は独立した個人としては欠けていた力を 穫得するのである。他人と共棲的な関係にはいろうとする衝動へかりたてられるのは、自己自身の孤独感に抵抗できないからである。」（注47）
「権威主義」的性格は、他者に従属するか、他者を従属させるかの差はあれ、自分と他者とが完全に依存し合うことによって、耐え難い孤独から逃避することに成功するのである。これは極めて消極的な生き方といえる。なぜなら、孤独の回避に伴って、個性と自由が消滅するからである。
「権威主義」的（マゾヒズム的、サディズム的）性格は特殊な例と捉えることもできる。しかし、「自由からの逃避」のうち、最も問題視されなければならないのが、多くの現代人が自覚のないままに陥っている「機械的画一性」である。
「この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し、それと同時に、狐独や無力を恐れる意識も消える。このメカニズムは、ある種の動物にみられる保護色と比較することができる。かれらはその周囲の状態にまったくにてしまうので、周囲からほとんどみきわめがつかない。個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一となった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。
孤独を克服する「正常な」方法が、自動人形になることであるという仮定は、われわれの文化のうちにもっとも広くいきわたっている人間観と矛盾する。われわれの大部分は、自分の思うままに自由に考え、感じ、行為する個人であるとみなされている。たしかにこれは、近代の個人主義の主題について、一般にいわれる意見であるばかりでなく、各個人も自分は「自分」であり、かれの思想、感情、願望は「かれのもの」であると、真剣に思いこんでいる。たしかにわれわれのあいだには、本当の個人もいるが、しかしたいていのばあい、この信念は一つの幻想である。しかも、この信念は、このような事情の原因である諸条件を撤去することを妨げるものであるから、危険な幻想なのである。
われわれがここで取り扱うのは、心理学のもっとも根本的な問題の一つであるが、それは一連の問いによって、ただちに明らかとなる。自己とはなんであるか。ただ幻想的にのみ自分自身の行為であるような行為とは、どのような性質のものであるのか。自発性とはなにか。独創的な精神的行為とはなんであるか。最後に、これらすべてのものは自由とどのような関係があるのか。」（注48）
右のフロムの言説は、本節第一項における国語教育実践者の小山清氏の指摘する現代人の「平板な模倣」を想起させる。
現代人の多くが、文化社会や他者が期待するような状態に成りきることによって「孤独」を回避している。そして、この「機械的画一性」の特異性は、それに陥っている者に自覚がないことにある。自分自身の意見・行動理念と信じていることが、時に権威ある他者のコピーでしかないことに気づかない。自分が自立した「個人」であることを当然のことと考えている。もちろん、他者や社会から影響を受けるのは当然のことである。共通した言語を使い、共通した文化社会に生活している限り、人は完全な意味で孤立する事などできない。しかし、積極的に生きていくためには、少なくとも自分が他者や社会からどのような影響を受け、それに対してどのように考えているかはっきり自覚しておく必要がある。
右のような点についてフロムは、ファシズムを対象とした記述から、我々自身の問題へと話題を転換させる文脈の中で次のように述べている。
「しかしわれわれ自身についてはどうであろうか。われわれ自身のデモクラシーは、たんに大西洋の彼方のファッシズムや、あるいはわれわれ自身の階級のなかの「第五列」によっておびやかされているだけであろうか。もしそうだとすれば、事情は重大ではあってもまだ危機とはいえまい。しかしフアッシズムの脅威を国の内外を問わず真剣にとりあげても、もしわれわれが、われわれ自身の社会においても、個人の無意味と無力さという、どこででもファッシズム台頭の温床となるような現象に直面していることをみのがすならば、これほど大きな誤謬、重大な危険はない。
このような考えは、あらゆる外的な束縛から個人を解放することによって、近代デモクラシーは真の個人主義を完成したという通念と対立するものである。われわれはどのような外的権威にも従属していないことや、われわれの思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。そしてわれわれはこの自由こそ、ほとんど自動的にわれわれの個性を保証するものであると考えている。しかし思想を表現する権利は、我々が自分の思想を持つことができる場合においてだけ意味がある。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となる。われわれはその目標を達成したであろうか。あるいは少くともそれに近づきつつあるだろうか。本書は人間的な要因をとり扱うのであるからこの問題を批判的に分析することこそその仕事である。そうすることによって、われわれはこれまでの諸章に脱落していた糸を拾いあげることができる。近代人にたいする自由の二面性を論じたとき、現代において、個人の孤独と無力を増大させている経済的諸条件を指摘した。すなわちその心理的結果を論じて、この無力は権威主義的性格にみられる一種の逃避を導くか、あるいは狐独となった個人が自動人形となり、自我を失い、しかも同時に意識的には自分は自由であり、自分にのみ従属していると考えるような強迫的な画一性に導くことを示した。」（注49）
フロムは我々が本当に真の自由を手に入れているのかどうかを問うている。我々が「個人」としての自立した思想を持つのは容易ではない。自由を獲得するために戦う相手がはっきりと目に見えれば（例えば「君主」等のように）、反抗することも可能である。しかし、現代において個人が真の自由の獲得のために戦う相手は、無意識の中に隠れ潜むこともある。
そのような点についてフロムは次のように述べている。
「最近になって、「良心」の重要性は失われてきた。個人生活において力をふるっているのは、いまや外的権威でも内的権威でもないようである。すべての人間は、もしかれが他人の合法的な主張に干渉しないならば、完全に「自由」である。しかしわれわれのみるところによれば、権威はなくなったのではなく、むしろ目にみえなくなっただけである。あらわな権威のかわりに、匿名の権威が支配する。そのよそおいは、常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。それは強制せず、おだやかに説得するようにみえる。それは自明のことだけしか要求しないようにみえる。母親は娘に「あの青年といっしよに外出するのはいやでしょう」といい、広告は「このシガレットを喫ってごらんなさい、そのさわやかさはお気に召すにちがいありません」と暗示するーけっきょくわれわれの全生活をおおっているのは、これらの微妙な暗示の雰囲気である。匿名の権威は、あらわな権威よりも効果的である。というのは、ひとはそこにかれが服従することが期待されているような秩序があろうなどとは想像もしていないから。外的権威のばあいには、秩序があり、命令するものがあるということは明瞭である。ひとは権威と戦うことができる。そしてこの戦いのうちに、個人の独立性と道徳的勇気とが発達することができる。また内的権威のばあいにも、命令は内的なものであっても、それは認識しうるものである。ところがこれにたいし匿名の権威のばあいには、命令も命令するものも、目にみえないものとなっている。それは目にみえない敵によって砲撃をうけるのに似ている。戦うべきなにびとも、またなにものも存在しないのである。」（注50）
現代における権威は、「匿名の権威」として目に見えないところにある。それは「常識」や「正常性」という衣をかぶって、個人の抵抗を妨げる。個人が「匿名の権威」を意識の対象とすることは容易ではない。現代の個人は「目に見えない敵」によって、無自覚なまま「機械的画一性」に陥り、結果として原因の分からない無力感と不安を感じることになる。
「われわれの願望ーそして同じくわれわれの思想や感情ーが、どこまでわれわれ自身のものではなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感ずる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっている。そこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを、考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで、自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している。
自我喪失の結果、順応の必要が増大した。というのは、それは自己の同一性についての深い疑惑を導くからである。もし私がほかから予想されていると思うものでしかないならばー「私」とはなんであろうか。われわれはすでに、個人が固定した秩序のなかでゆるぎない地位をもっていた中世的秩序の崩壊とともに、どのように自分自身についての懐疑がはじまったかをみてきた。個人の同一性はデカルト以来近代哲学の主要な問題であった。こんにちでは、われわれは当然のこととして、自分は自分であると考えている。しかもなお自分自身についての懐疑は存在し、さらに増大しさえした。ビランデルロはその戯曲において、近代人のこの感情を表現した。かれは次の問いから始める。私はだれであろうかと。私の肉体的自我の持続のほかに、私自身の同一 性を保証するものがあるであろうか。かれの答えはデカルトの解答ー個人的自我の確証ーとはことなり、その否定である。すなわち、私はなんの同一性ももたない。他人が私にそうあるように期待していることの、反射にすぎないような自我以外に、自我などは存在しない。私は「あなたが私に望むままのもの」である。
この同一性の喪失の結果、いっそう順応することが強制されるようになる。それは、人間は他人の期待にしたがって行動するときにのみ、自我を確信することができるということを意味する。もしわれわれがこのような事情にしたがって行動しないならば、われわれはたんに非難と増大する孤独の危険をおかすだけでなく、われわれのパースナリティの同一性を喪失する危険をも犯すことになる。そしてそれは狂気におちいることを意味するのである。
風変りにならず、他人の期待に順応することによって、自己の同一性についての懐疑は静められ、一種の安定感があたえられる。しかしその払う代価は高価である。自発性と個性を放棄することは生命力の妨げとなる。心理的に自動人形であることは、たとえ生物学的には生きていても、感情的、精神的には死を意味する。たとえ生の運動をおこなっているとしても、かれの生命はかれの手から砂のようにこぼれていく。近代人は表面は満足と楽天主義をよそおっているが、その背後では深い不幸におちいっている。事実かれは絶望のふちにある。かれは個性という観念に絶望的にとりすがろうとしている。」（注51）
右のフロムの言説から、現代人の心が袋小路に入っている様子がよくわかる。
現代人は、孤独から逃れるために「個性の幻影」にすがる。しかし、彼が信じる「個性」は他者から期待され与えられた受身的な「まぼろし」にすぎないものであるために、人は本質的な孤独や不安から逃れることは出来ない。人は不安を解消するためにいっそう「個性の幻影」にすがろうとする。ここに決して解けることのない無限のループが生まれ、現代人はその中でもがき続ける。
真に自由で、真に個性的であるためには我々が我々自身のことをもっと知る必要がある。現代人の心の閉塞状況をいかにして切り開くかについて、さらに論を進めていく。
４ 「自己認識」の意味
フロムは、民主社会の陥穽を浮き彫りにしてはいるが、民主社会を否定しているわけではない。フロムは現代社会について、人が真の個人になる可能性を持った世界であると肯定的に捉えている。
「しかし人間は、彼を一個の「原子」にしてしまった世界に生きているだけでなく、同時に、一人の個人となるあらゆる可能性をあたえるような世界に生きている。近代の産業組織は本質的に、あらゆる人間にたいし、経済的に保証された生活のための手段を造りだすだけでなく、労働時間をいちじるしく短縮させながら同時に人間の知的、感覚的、感情的な潜在力を十分に表現するための物質的基礎を創造する力をもっている。
権威主義的なイデオロギーと実践の機能は神経症的徴侯の機能に比較することができる。このような徴侯はたえがたい心理的条件の結果であり、同時に生活を可能にする解決を提供する。けれどもそのような徴候は、パースナリティの幸福や成長を導く解決ではない。それらは神経症的解決を余儀なくさせている条件を変えることはない。人間の性質の動的運動は、もし成功の可能性があるならば、より満足すべき解決を求めようとする重要な因子である。個人の孤独と無力、かれのうちに成長した潜在力を実現しようとする追求、近代産業の増大しつつある生産力という客観的事実、これらは動的な要因であって、より多くの自由と幸福とを追求する 基礎となっている。共棲への逃避は、しばらくのあいだは苦痛を緩和することができるが、苦痛を除去することはできない。人類の歴史は個性化の成長の歴史であり、また自由の増大していく歴史である。自由の追求は形而上学的な力ではなく、自然法によって説明することはできない。それは個性化の過程と文化の成長の必然的結果である。権威主義的組織は、自由の追求を生みだす根本的条件をとり除くことはできない。またこれらの条件から生ずる自由の追求を、根絶させることもできない。」（注52）
現代社会は、人を孤独にしたが、同時に人に真の個人になる可能性を与えた。現代社会の発展に伴う労働時間の短縮は、人の持つ様々な潜在力を発現する機会を作り出した。
ここで、山崎正和氏の言説を振り返ってみる。山崎正和氏は現代を「一人一人自分が自分自身を十分には知ってゐない、といふ事実に気づく可能性を持ち始めた時代」と定義していた。現代社会は「選択」の機会を増大させた。その結果個人は自分自身の行動原理を問いただされることになった。誰にも頼ることなく自分自身の力によってである。ここで受身になる者は「アイデンティティ拡散」などの病理に逃げ込まざるを得なくなった。そしてフロムにより、正常と思われる人々も知らず知らずのうちに「機械的画一性」に陥っている可能性が指摘された。「自立」の可能性と危険性を同時に持つ現代社会は、人の発達段階における青年期の様な性格を持ち始めた。
それでは現代人はいかなる手段によって「真の個人」になるのか。『自由からの逃走』序文にも示されていたようにフロムは、我々自身の積極的自由・自発性の意義を説いている。
「われわれの大部分は、少くともある瞬間には、われわれ自身の自発性をみとめることができる。それは同時に純粋な幸福の瞬間である。一つの風景を、新鮮に自発的に知覚するとき、ものを考えているうちにある真理がひらめいてくるとき、型にはまらないある感覚的な快楽を感じるとき、また他人にたいして愛情が湧きでる とき、ーこのような瞬間に、われわれはみな、自発的な活動とはどのようなものであるかを知るであろう。そしてもしこれらの経験が、それほどまれでも粗野でもなくおこるとすれば、人間の生活がどんなものになるか、想像してみることができるであろう。
自発的な活動がなぜ自由の問題にたいする答えとなるのだろうか。われわれは先に、消極的な自由はそれだけでは個人を孤独にすること、個人と世界との関係は、疎遠な信頼できないものとなること、かれの自我は弱められ、断えずおびやかされることを述べた。自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。というのは、ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界にー人間、自然、自分自身にー結びつけるから。」（注53）
自発的に他者や世界に関わっていくとき、人は孤独を解消することができる。この見解は、小此木啓吾氏の指摘した「プロテウス的人間」を想起させる。自分を一定の価値に縛り付けることなく不断に他者や様々な価値との関係を模索し続ける積極的「モラトリアム人間」の発想は、フロムの「自発性」から生まれたものだろう。（『モラトリアム人間の時代』の冒頭部で、フロムの『自由からの逃走』が紹介されている。）
しかし、この時これまで論じてきた問題点が再浮上してくる。「プロテウス」たるためには「物凄いエネルギー」が必要だということである。積極性を支えるための何らかの方策がなければ、結局「自由からの逃走」を招きかねない。
つまりフロムの提示する問題は、ここで「アイデンティティ論」と重なってくる。
個人の積極性を支える方策のヒントが、次のフロムの言説にある。
「子どものとき、ひとはだれしも無力の状態を経過する。そして真理は力のないものの最強の武器の一つである。しかし真理が個人の関心のうちにあるのは、たんに外界におけるかれの態度決定についてだけではない。かれ自身の強さは、自分についてどれだけの真理を知っているかによって、大きく左右されるのである。自分についての幻想は、ひとりで歩けない人間にとって有益な杖となるかもわからない。しかしそれは人間の弱さを増大させる。個人の最大の強さは、かれのパースナリティの一貫性の最大量にもとづくものであるが、それは自分自身にたいする理解の最大量にもとづいているということである。「汝みずからを知れ」という言葉は、人間の強さと幸福をめざす根本的な命令の一つである。」（注54）
「彼自身の強さは、自分についてどれだけの真理を知っているかによって大きく左右される」。「個人の最大の強さは自分自身に対する理解の最大量に基づく」。すなわち「自己認識」である。
アイデンティティ論の枠組みからは、次のようにいえる。
自分に対する自信である「アイデンティティ」は、単に個人の内面だけの存在ではなく、「心理社会的同一性」として、他者や様々な価値との関係の束によって作り上げられる。従って、他者や様々な価値を知るということは、自分自身を知ることでもあり、逆に自分自身を知ることは、他者や様々な価値を知ることでもある。積極的・自発的に自分を取り巻く世界に関わっていくためには、単にそれらを知るだけでなく、自分の心を知り、自分の心と世界との関係性が理解されなければならない。人はそれを足場にして、真の個人になる
アイデンティティを獲得する ことができる。
山崎正和氏は次のように述べている。
「すなわち、成熟するとは、これまでは人間が自己を限定することであり、限定された自己に耐え忍ぶ能力を持つことであったが、しかし、すでに見たように、現代の社会はいまやさうした自己限定を強制する力を失ひ始めてゐる。青年がそのやうな自己限定を躊ってゐるのも事実であるが、そのまへに、彼らが自己を一体化し、自己の内容として受け入れるべき役割りの重味が減り始めてゐる。見方によれば、敏感な青年は、社会の横軸の意味の減少を漠然と感じとってゐて、むしろそれゆゑにこそ、そのうへに自己を位置づけることを躊ってゐると、見ることもできる。ひょっとすると、その躊ひは一時的な「猶予期間」の要求ではなくて、生涯を通じて単一の役割りに埋没することを拒否しようとする、ひとつの新しい人生態度の予兆なのかもしれない。考へて見れば、のちに述べるやうに、成熟するとは、必ずしも自己を限定することに尽きるものではなく、むしろ、限定しきれない自己の曖昧さと複雑さとを受け入れることでもあらう。」（注55）
複雑なものを複雑なまま、曖昧なものを曖昧なまま受け入れることは、自己と世界との複雑な関係性を認識することに他ならない。河合隼雄氏の指摘したエリクソンの「ライフサイクル」に内包される東洋思想「善も悪もそこに含みこんだ全体的な世界観を人生の軌跡全体にわたってもとうとする」等もほぼ同様の考え方であろう。
また、右のような考え方は次節において分析するカウンセリング理論の根本原理とも一致する。
本節においては、次のような点を確認した。
まず、青年期に人はアイデンティティの危機を体験するが、それが逆に生涯に渡るアイデンティティ獲得への基盤作りとなる。現代社会の「選択」の機会の急増が、現代人に真の「個人」になる可能性を与えたが、同時に深刻な「孤独」感を引き起こす。現代社会を積極的・自発的に生きていくためには、「自分を知ること」が必要である。
次節においては、「自分を知ること」を理論の基盤に据えるカウンセリング理論を対象として、特に国語教育との関係を中心に論を展開させる。
《第一章第一節》
（注１）増淵恒吉『増淵恒吉国語教育論集 中巻 読解指導論』132頁 昭和五十六年三月十日 有精堂
（注２）足立悦男『講座／現代の文学教育第五巻 中学・高校【詩・評論編】』14頁 一九八四年五月 新光閣
（注３）児玉忠『高等学校 文章表現の授業』240頁 平成九年四月一日 渓水社
（注４）増淵恒吉『増淵恒吉国語教育論集 下巻 文法指導論・表現指導論』166頁 昭和五十六年三月二十日 有精堂
（注５）小山清『国語科教育の理論と実践 二』167頁 昭和六十一年十一月十日 大学印刷
（注６）宮本信也『第二十二回 教師のためのカウンセリング研修会 報告書』12～13頁 平成九年 上智大学カウンセリング研究所
（注７）西平直『エリクソンの人間学』188～189頁 一九九三年六月十八日 東大出版会
（注８）河合隼雄『河合隼雄著作集第13巻 生きることと死ぬこと』11頁 一九九四年二月十日 岩波書店
（注９）『論語』の為政第二の四「吾れ十有五にして学に志す。／三十にして立つ。／四十にして惑わず。／五十にして天命を知る。／六十にして耳順う。／七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」
（注10）インドのヒンドゥー教において、上級カーストに属する人々が、人生の理想的な過ごし方と考えている ライフサイクルの一種。学童期、家住期、林住期、遁世期に分けられる。
（注11）（注８）に同じ、14～15頁
（注12）（注８）に同じ、16頁
（注13）Ｒ．Ｉ．エヴァンズ『エリクソンは語る─アイデンティティの心理学─』44～45頁 一九八一年四月十日 新曜社
（注14）小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』88～90頁 一九七八年十月二十五日 中央公論
（注15）Ｅ．Ｈ．エリクソン『幼児期と社会 一』335～336頁 一九七七年五月三十日 みすず書房
（注16）鑪幹八郎『アイデンティティの心理学』61～62頁 一九九○年九月二十日 講談社
（注17）Ｅ．Ｈ．エリクソン『ライフサイクル，その完結』97頁 一九八九年五月十二日 みすず書房
（注18）（注15）に同じ、336頁
（注19）Ｅ．Ｈ．エリクソン『幼児期と社会 二』220頁 一九八○年三月三十一日 みすず書房
（注20）（注19）に同じ、221頁
（注21）（注19）に同じ、239頁
（注22）（注14）に同じ、14頁
（注23）（注14）に同じ、16頁
（注24）（注14）に同じ、29～30頁
（注25）（注14）に同じ、30頁
（注26）（注14）に同じ、50頁
（注27）（注14）に同じ、52頁
（注28）（注14）に同じ、55頁
（注29）（注14）に同じ、55頁
（注30）（注16）に同じ、92～93頁
（注31）（注16）に同じ、163頁
（注32）（注16）に同じ、165～166頁
（注33）日本文化における場所の感覚。現実に機能するものでなく、象徴的な意味をもって人間関係をまとめる存在。
（注34）（注16）に同じ、166～167頁
（注35）（注16）に同じ、167～168頁
（注36）（注16）に同じ、174頁
（注37）（注16）に同じ、175頁
（注38）（注16）に同じ、179～180頁
（注39）山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』184～186頁 一九八七年三月十日 中央公論
（注40）（注39）に同じ、187～188頁
（注41）Ｅ．フロム『自由からの逃走』４頁 昭和二十六年十二月三十日 東京創元社
（注42）（注41）に同じ、120～121頁
（注43）（注41）に同じ、27～28頁
（注44）（注41）に同じ、158～159頁
（注45）（注41）に同じ、159～160頁
（注46）（注41）に同じ、162～163頁
（注47）（注41）に同じ、176頁
（注48）（注41）に同じ、203～204頁
（注49）（注41）に同じ、226～227頁
（注50）（注41）に同じ、185～186頁
（注51）（注41）に同じ、279～281頁
（注52）（注41）に同じ、259～260頁
（注53）（注41）に同じ、286頁
（注54）（注41）に同じ、274～275頁
（注55）（注39）に同じ、41～42頁
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