「影」 首藤至道
パンツ一枚になったところで少年の動きが突然止まった。目の前には洗面所の鏡がある。薄暗い風呂の光を受けて、青白い子供の顔が幽霊のようにそこに映っていた。
アパートの鉄筋コンクリの壁も、外の寒気を完全には遮断しない。暖房を使わないこの部屋では、はく息も白いほどである。暖かいお湯をめざして躍動していた彼の心も、鳥肌の立った彼の体同様、熱を失いつつあった。
青ざめた丸い顔。短くそろえた髪の毛。八の字の眉。鏡に映った子供の顔は他人のように空々しかった。少年は軽く顔を左右に振ってみた。鏡の顔も一緒にゆれる。少年は一直線にそろった前髪を、ばさばさとかき乱してみた。鏡の顔は泣き顔のようになった。今度は思いっきりしかめっ面をして、歯ぐきをむきだしにしてみせた。この顔は少年の気に入った。これが自分の顔なんだとようやく納得する。彼はそのまま鏡にぐっと近づいてみた。鼻の頭が鏡の顔とくっつきそうになる。しばらく少年はそのままでいた。顔が次第に紅潮していくのがわかる。不意に彼は不安を感じた。鏡に映った影にすぎない自分の顔が、あまりに生々しい。背後に映るコンクリの壁が、おかしなほどだだっぴろい。鏡のなかで自分ではない異世界の住人がこちらの世界を覗き込んでいる。次の瞬間の、そいつがこちらに飛び出して、鼻の頭にかじりつく情景を、少年は心に描いた。
すぐに少年は顔のこわばりを解いた。鏡のなかの顔ももとの弱々しい子供の顔に戻った。動悸が少しずつ緩やかになっていく。少年はちょっぴりがっかりした。同時に今まで心の外においやられていた部屋の空気の冷たさが、倍になって少年の周囲に戻ってきた。
ふと、顔をあげると、そこに白い歯を見せた大きな顔があった。少年は思わず小さな叫び声をあげたが、それは母親だった。いつのまにか側にきて彼の様子を見ていたのだ。母親は笑って言った。
「あんた裸ん坊でなにしてるの。」
少年はしばらく黙っていたが、ふいに照れくさそうな笑いを浮かべると、パンツを脱ぎ捨てた。
「それじゃあ、はいるよー。」
母親がうなずくのを確認すると、少年はがらりと風呂のガラス戸を開けた。
二畳ほどの空間にうす汚れたユニットバスが置いてある。灰色のコンクリの壁は所々茶色く変色していた。窓を小さく開けているため、脱衣所の寒さにもまして身が縮むようである。少年が上ぶたをカラカラと巻き取ると、中から水蒸気が一気に吹き上げてきた。少年はろくに体も洗わず、湯ぶねに飛び込んだ。引きつった体中の筋肉が、みるみるほどけていく。少年は大きくため息をついた。
しばらくの間、少年はぼんやりと目の前の壁を見つめていた。すでに見慣れた壁である。彼がここに引っ越してきた時にすでにあった壁のしみは、何年もの間に複雑にその模様を変えていった。かびの類が湿気で柔らかくなった壁に根を下ろし、水洗いした程度では落ちないのだ。入り口に近いところの壁が一部分だけきれいにコンクリートの肌を露出している。誰かが落とそうとしてあきらめた跡に違いない。
見ているうちに少年は、壁のあちこちに妙にくっきりと黒いしみがあるのに気がついた。数ミリ程度のそのしみは壁のほくろみたいだ。ぐるりと見回して数えてみると、それは五つあった。少年は湯ぶねから立ち上がって、一番近い黒点に顔を近づけてみた。近づくうちにそれはしみではなくぽっくり盛り上がっていることがわかった。
それは小さな蛾だった。少年は暖まって上気した頬を壁にそろりとくっつけた。壁の冷たさがひんやりと心地よい。少年は息を止めて、真横からそいつを凝視した。蛾は小さな三角の羽を二つ持っている。全体的には非常に丸っこい。少年は口をすぼめてふっと空気を送ってみた。風にあおられて羽がめくれる。しかし、黒点は産毛のような六本の足で壁にぴたりとしがみつき、逃げようともしない。
少年は自分のからだが冷えすぎたことに気づき、湯ぶねに腰をおろした。
彼は両の手のひらをかみあわせ、人差し指だけを立てて「水でっぽう」をつくった。そして一番低いところにある黒点にねらいをつけ、ぴゅっぴゅっと湯を飛ばし始めた。湯はなかなか真っすぐは飛ばない。しかも、たいてい目標まで届かず、途中で失速してしまう。そこで少年はねらいを少し上にずらした。湯は高く上がるもののやっぱり目標に届かない。少年は腕全体を使って湯を押し出すように飛ばしだした。
そのうちようやく黒点に湯が直撃した。湯の流れ落ちた後はたして黒点はそこから消えていた。蛾は打ち落とされて、排水溝に吸い込まれたに違いない。少年は黒点を数え直してみた。ところが今度は七つもあるのである。よく見るとさっき狙った場所のすぐ上に新しい黒点ができている。あとの二匹は今まで少年の死角にいたものが、水しぶきの余波で舞い上がってきたものだろう。もう一度少年は水でっぽうで黒点を狙ってみた。今度は全く届かなかった。
次に少年は手でおわんを作って湯をすくって投げ始めた。今度はだいぶ高いところまで届いた。しかしなかなか目標に直撃しない。少年の小さな手ですくえる量には限りがある。しかも投げる過程で湯はどんどん流れ落ち、投げてもすぐ広がって、かたまりのまま目標に届くことはほとんどない。何度やっても壁をまだらにぬらすだけで、後数センチというところで黒点は平然とその場にとどまっているのだ。
少年のまなじりが次第に引きつり始めた。湯を飛ばす手にも力がこもる。彼の頭のなかに小さな黒い点が生まれた。それは湯を投げる度ごとに膨張と収縮を繰り返し、彼の思考を圧迫した。そしてどんどん肥大化していく。
まだ落ちない。
少年は湯ぶねの中に立ち上がった。立ったまま構えを作って、ソフトボールのピッチャーのようにピャッピャッと水を弾き始めた。彼が動作を終えるたび、固定の弱いユニットバスは、中の湯ともども大きく揺れた。
ついに狙いすました一撃が黒点の上に叩きつけられた。少なくとも少年の目にはそう見えた。付近一帯の壁には黒点はない。少年はいそいで黒点の総数を確認する。するとやっぱり七匹いるのである。虫は湯しぶきにまぎれて大きく位置を変えたらしい。少年は湯ぶねに沈んだ。
しばらくして少年はザバリと身を起すと洗面器を手にとった。そして大きく湯をすくって両手で勢いをつけ、壁にぶちまけた。湯しぶきでまだらになった壁が洗い流されて、一瞬きれいな平面になる。湯はすぐに流れ落ちて、壁はうすよごれた地肌を見せた。その一面には黒点の姿はない。少年はぐるりと他の壁に首を振る。一目見て黒点の数に変わりのないことがわかった。
今や黒点は、真っ黒なバルーンとなって彼の頭骸の内側に張りついていた。そしてこめかみをぐいっぐいっと押し上げるのだ。
少年は今度は洗面器を湯ぶねに沈めて慎重に持ちあげた。それを一滴もこぼさぬよう両手で捧げ持って、湯ぶねから出て、ふらふらと黒点に近づく。洗面器の底を右手一本で支え持ち、湯の表面が静まるのを見て取ると、黒点に覆いかぶせるように押しつけた。けたたましい音が少年を驚かせた。さらに洗面器が右手から滑り落ち、湯をまき散らしながら床に転がった。
少年は湯ぶねに飛び込んだ。バタバタと足音をたてて誰かが近づいてきた。ふろの戸が開き、母親の驚いたような顔が中を覗き込んだ。
「どうしたの。」
「いや、ちょっと手が滑ったんや。なんでもない。」
少年は苦笑いをしながら、顔半分ぐらい湯ぶねに沈んだ。
母親はしばらく不審げに風呂場を見回していたが、「いいかげんに出なさいよ。」と言って戸をしめた。
すぐに少年は立ち上がった。そして目をむいて黒点を探す。目標は全て少年の手の届かないところに逃げてしまっている。
少年は湯ぶねのへりに足を掛けた。角の部分を利用して湯ぶねのうえに立ち上がる。湯ぶねのへりは七十センチほどの高さである。固定されていないユニットバスはよくゆれる。少年は両手でバランスを取りながら黒点を探した。見れば目の前だ。少年は平手を振りあげた。
ペチッ！
今度は確実だ。手ごたえがあった。
少年はゆっくりと手を離した。水滴がまんべんなく張りついた風呂の壁に、そこだけきれいな手形ができた。手形の真ん中には黒いほくろがあった。少年は息を吹き掛けてみた。黒点はピクリともしなかった。
頭のなかの黒い風船は空気を抜かれたかようだった。かわりに胸のなかに暖かい赤いかたまりがぽつんと生まれた。そしてひかえめにひかえめに広がり始めた。
ペチッ！……ペチッ！……
風呂場に間の抜けた拍手のような反響音がこだました。少年は慎重に足を運びながら、次々と獲物を探した。あるものはそのまま壁のしみとなり、あるものはほくろのように手に張りついた。
ペチッ！……………
六つめをたたいた後、壁のどこにも平面化していない黒点が無くなった。もう一匹いるはずである。気づくと足の甲が妙にむずがゆい。見れば最後の一匹が、こともあろうに自分たちの殺戮者である巨人の足の上に、何も知らずにとまっているのだ。少年はにやりと笑った。いまや彼の中で黒い点は完全に消滅し、赤い熱いかたまりが最後の瞬間をめざして力を蓄え始めていた。いつそれが限界をこえて最後の一撃となってほとばしりでるのか。彼の心も、不安定な彼のからだ同様、絶妙のへりの上で揺れていた。
少年は動いた。身をかがめて、すばやく黒点をたたく。その瞬間、がたんと音を立てて湯ぶねが傾き、少年の体は大きくバランスを崩した。少年は慌てて支えを探す。しかしコンクリートの壁はつかむべきものなく、そのまま彼は足を滑らせた。
ガラスの割れる音がした。続いて足音が慌ただしく近づいてくる。ガラスの破片を引きずりながら戸が開いた。
「あんたなにしてるの。」
母親の声が少し震えて聞こえる。
少年はガラスの破片のなかに裸で座っていた。そしてぼんやりと湯ぶねの方を眺めていた。
「あんた、あぶな……しろう！あたまっ。」
少年は頭に手をやった。左の後ろ頭に近いところが少しぎざぎざしていた。とたんに手ははらいのけられた。
「さわっちゃだめ。このタオルをあてて…。病院いこう。すぐタクシーよぶから。じっとしときなさいよ。」
母親がまた慌ただしく向こうに駆けていった。
風呂場は静まりかえった。少年は手を見た。手はところどころ赤く染まっていた。少年は体にくっついたガラスの破片を少しずつとり始めた。
「しろう」
誰かが呼ぶ声がした。少年は真っ暗な脱衣所の方を見た。むろん、誰もいない。さっきあれほど彼を楽しませた鏡も、今は何の変哲もないただの〃もの〃にすぎない。しかし、少年はわかっていた。あれは父親の声だ。
「しろう」
また誰かが呼ぶ。今度は母親の声だ。少年は静かに目を閉じた。彼にはわかっていた。あれは自分の心の影のようなものだ。こうして目をつむっていさえすれば、いつかそれは消えてしまうのだ。
「しろう」、学校の先生だ。
「しろう」、姉の声だ。
「しろう」、…。
「しろう」、…。
そのうち、目をつむって堪えている自分の心の奥が妙に暖かいのに気がついた。少年は目を開いて言った。
「うん。」
そのとたん赤い熱いかたまりが、ぱっとはじけて体中に広がった。呼び声は速回しになって闇の中に吸い込まれた。
少年は静かに泣き始めた。傷の痛みからではない。自分を呼ぶ声への恐怖からでもない。胸の奥から熱いかたまりが、また次々と生まれ出て、彼の喉を突き上げるのである。それらは体の表面で砕け散り、指の先まで染み透った。それは不思議な成就感であった。
誰かが少年の手を握った。母親だった。
「いたむのかい。もうちょっとがまんしよな。すぐタクシーくるから。」
涙がぽろぽろこぼれ落ち、少年の裸の足を流れていった。
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